恋とじょんのび
「ありゃさーありゃさ」
懐かしい音がした。
平日の昼。
いつもの駅。
懐かしい音に思わず振り返ると、「じょんのび」の旗。
一瞬で私の胸にさまざまな思いが駆け巡る。
「ありゃさーありゃさ」の掛け声で踊った幼い日の私、夜店で買った「お化粧セット」で肌を荒らした私の話を何度もする父、新しくなった実家、祖母の膝の上に座って笑っていた息子、1歳の息子に食べれもしないせんべいをあげて笑っていた祖母、息子を北枕で寝かせていたら鬼のように怒った祖母、記憶よりずっと小さい両親、セミの鳴かない砂浜。
実家に帰りたくて泣きたくなる。
私には両親に合わせる顔がない。
だって2回も結婚してその2回目の結婚がダメになって、心配をかけているから。
だから今年は帰らなかった。
帰れなかったのは私のせいだ。
息子には関係のないことだ。
ちょうどいい。
物産展で、栃尾揚げを買って、イタリアンを買って、自分のために地ビールを買って、里帰りした気になろう、と妙に気持ちが高ぶりもした。
混とんとしていた。
すぐに笑うこともできたし泣くこともできた。
ただいえることは、胸が押しつぶされそうになったということだ。
私ごときに扱える問題じゃない問題が私の身に降りかかっているということだ。
混とんとしたまま、私は立ち尽くした。
本当に、おかしなことだ。
「じょんのび」の旗につられて物産展をのぞくか、いつも通り物産展などなかったことにして改札をくぐるかすればよかった。
しばらくのうち、そのどちらもできなかった。
京橋の駅で立ち尽くす中年女なんていない。
少なくとも私は見たことがない。
しかたがないので、駅構内のカフェでアイスティーを飲んだ。
不思議なもので、アイスティーを飲んでいる間は、物産展のことは考えなかった。物産展に立ち寄るか立ち寄らないか、決心がつかずに選んだ行動だというのに。
結局、物産展には立ち寄った。
私の欲しいものが売っているか確かめたかったし、やはり、素通りすることはできないと思ったからだ。
物産展は、肩透かしだった。じょんのびの旗を掲げておいて地ビールのひとつもおいていないとはなにごとか?
じょんのびって地ビールじゃなかったかしら?
地ビールも、栃尾揚げも、イタリアンも、桃太郎アイスも、私の心惹かれるものはひとつもなかった。
ひどいものだった。
地元の人間がひどい、というのだから、そのラインナップたるや散々なものと思っていい。
物産展は期待外れのものだったが、私の混とんとした気持ちは収まらなかった。
実家に帰りたいけど帰れないと、誰かの胸に顔をうずめながら泣きたかった。
物産展があったんだけど、欲しいものがなかった。あいつら全然わかってない!と笑いながらディスりたいと思った。とにかく笑うか泣くかしたかったのだと思う。
ついでに、私が使う沿線の、電車が止まったときのみんなのつぶやきが好き、という話もしたいと思った。
そのついでのついでに、廃墟みたいだった〇〇市民病院が、市立〇〇病院に名前が変わって超キレイになっていてびっくりした話もしたいと思った。
話したい相手は、彼だった。
瞬時に。そしてたったひとり。
彼しか思いつかなかった。
彼のことは大好きだった。
だけど彼は私のことを好きではなかった。
それだけのことだ。
その後、私は彼のことを忘れて、それはちょっと大変な作業ではあったが、きちんと彼のことは忘れて、モラ夫と出会った。
彼には、なんだかバカにされていたような、安く見られていたような気がして彼に振られてから5年間、まったく話をしなくなった。
気持ちがなくなった以上、興味もなく、彼と話したいと思うことがなくなったということもある。
しかしモラ夫が出て行った今、なんとなく彼と5年前以前のように話をするようになった。
一緒にドラクエをしていて、「もういい年やねんから」なんて言い合っているとなんだか、いいなあ、という気持ちになる。
出会った頃はお互い20代やってんねえ、なんて言いながら「小学生か」とか言いながらDSで通信してる私達って、なんかステキやん、て思ってしまう。
彼に対する気持ちはなくなったままだけど、話し相手が欲しいとき、ふいに彼のことを思い出す。
私はプライドが高いのか意地っ張りなのか、親にさえ本音がなかなか言えなくて、今回のことだって母が本気で突っかかってくれたから泣けたけど、強がりしか言えない人間だ。
そんな私が泣いたのは、彼の前だけだったのにきづいた。
5年前とちっとも変わっていない自分に笑う。
気を抜くと、彼を好きだと思ってしまう、その思考回路に笑う。
きっと今から5年後も、今と同じことを思う瞬間があるのだろうと思うと笑う。
5年後も同じことを思っていたら、もはやこれは運命なんじゃないかと思うんだけど。
って5年後も思ってそうで笑う。
なにこれ?私は超飽きっぽいのに。
成就しないから飽きない。
なんだか私、一生彼に飽きない気がする。
彼にはその気がないと書いたのに。
まるで「じょんのび」の旗を見たときのように混とんとしている。
その日は結局、彼と話さなかった。
彼と話す機会はあったけど、なんだか声をかけるのがためらわれたのだ。
私ったらなんでためらうのかね?